春吉(中洲)時代画像

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春 吉 (中 洲) 時 代
明治12年(1879)9月~明治20年(1887)3月31日
那珂郡春吉村中洲 (福岡市博多区中洲1丁目)

 福岡県立福岡農業高等学校の前身である旧福岡県立農学校は、明治12年9月勧業試験場の付属農学所として発足し、翌13年7月には農学校兼試験場となり、同11月末には農学校と試験場が分離独立した。北の札幌農学校(現北海道大学農学部)、東の駒場農学校(現東京大学農学部)に続いて国内3番目に開校した本校の教育内容は高く評価されていました。しかし、県立学校は師範学校以外は認めないという当時の政府方針により明治20年3月に廃校となりました。


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正門左に「福岡縣立農學校」 右に「福岡縣農學試験場」の表札があります。
※注:「縣」「學」はそれぞれ「県」「学」の旧字


 わずか8年足らずの短い期間でしたが、5回の卒業生を世に送り出し、それぞれの領域で大活躍しました。また試験研究においては、横井時敬を中心として、稲作改善に新機軸を確立し、特に塩水選(塩水選種法)は今日の稲栽培技術を一変させる画期的なものでした。塩水選の記念碑は現在は福岡県農業総合試験場にあります。設置当時は福岡市春吉勧業試験場の跡に建てられたと記録があり、それは中洲の校舎跡を指しているものと思われます。当時の写真から、対岸に向島遊園地(向島はキャナルシティ周辺の旧地名)と向島遊園地開園記念に博多町屋が住吉神社に寄進した高灯籠(S29に中洲の清流公園に移転)があることが分かります。


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春吉(中洲)にあったときの塩水選の碑


 農学校廃校後は、勧業試験場として研究活動を続け、明治34年4月竹下に福岡農学校が再興して以降、その流れは福岡農学校と農業試験場(現福岡県農業総合試験場・筑紫野市吉木)の2つに分かれましたが、互いに協力し合い日本の農業技術の発展に大きく貢献しています。



当時の学校地図(農地図)
上が北になるように図を逆さまにしています。


当時の農学校は現在の中洲一丁目にあり、丁度櫛田神社裏から中州懸橋(春吉橋の北側の歩行者専用の方)に続く道が地図にある道路になります。校舎はそこから約40間(約73m)入ったところにあったので、丁度今の国体道路南沿いになります。


 この地は昔は菜の花がたくさん咲く地ということで菜香洲と呼ばれ、明治の初期には名香洲となり現在の中洲という表記にかわっていったそうです。きっと当時の生徒たちは菜の花の香りに囲まれて勉学に励んでいたのでしょう。


 本校の創立は明治12年9月と13年7月、13年11月の3つで意見が分かれるところですが、本校としては前身である農学所が設置された明治12年9月を本校の創立としています。

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福岡県立福岡農業高等学校〒818-0134福岡県太宰府市大佐野250
Tel:092-924-5031 Fax:092-928-0740
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